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ベトナム人技能実習生ビックさんの障害補償給付請求(2012年1月執筆)
2024.04.24|相談事例
11月初旬にベトナム人の研修生や技能実習生を支援しているOさんが突然、弊センターの事務所に訪ねてこられ相談を受けました。相談は機械に指を巻き込まれたベトナム人実習生の女性がいるが、わずか一年働いただけで、もうすぐ帰国されられようとしているというものでした。私は、「女性は労災保険の申請をしましたか?」とOさんに聞きましたが、Oさんにはそれは分からないということでした。この日はベトナム人女性との面談日のみを決めました。ベトナム語通訳はOさんが引き受けてくれることになりました。
日曜日、名古屋市内の教会を訪ねました。被災者の女性が毎週通っている教会の会議室をお借りして面談をすることになったのです。南ベトナム出身のビックさんは23歳の小柄な女性でした。早速面談を行い、幾つかのことが分かりました。2010年12月に来日し2ヶ月程、茨城県で日本語などの研修を受けた後、2011年の1月初旬より小牧市内のプレス工場で働き始めたこと。働き始めて1カ月を少し過ぎた2月中旬に金属に穴を開ける機械のドリルに軍手をしていた右手が巻き込まれ、人差し指が醜く変形するほどの怪我を負ったこと。労災に被災した後、社長が自分を厳しく怒鳴りつけるようになったこと。怪我が治った後も、通常の仕事はさせてもらえず、一人だけ工場の掃除を毎日させられていたこと。実習一年目の在留期限が12月初旬までで残り少なく、在留期限が来る直前の11月下旬に帰国がすでに決まっているということなどでした。私と最初に面談した時、ビックさんは他の事業所で残りの2年間の実習を継続することを希望していましたが、私は次の実習先を見つけることは困難だと思いました。この後の面談で彼女がベトナム語の退職届を働いていたプレス会社に提出しているのが分かり、プレス会社で実習を続けさせてもらうよう交渉するのはかなり難しいことが分かりました。また、ビックさんをプレス会社に送っていた東京の監理団体に他の実習実施機関(会社)がないか探してもらい、労働組合などを通じて他の監理団体にもプレスの仕事はないかと問い合わせてもらいましたが、女性のプレス工の仕事はほとんど無く、在留期限も迫っていたのでビックさんは実習の継続を諦めるしかありませんでした。私がビックさんに「なぜ、退職届をだしたの?」と聞くと、「毎日いじめられていたから、どうでもいいと思って退職届を出したの」と答えました。嫌な社長の会社などとっとと辞めてしまえば良いと若者が考えるのは当然のことで、日本人の若者ならさっさと転職するところですが、実習生が他の実習実施機関へ移るのは、実習生を管理する監理会社などがあり容易ではありません。
11月下旬のある日、私たちとビックさんは名古屋北労働基準監督署へ行きました。労働基準監督署でビックさんの労災保険の申請状況を確認したところ、療養補償給付と休業補償給付はすでに申請され給付済みであることが分かりました。実際、労災被災後、2カ月程週一回病院に通い、被災後の1カ月間は会社からは給料はもらえませんでしたが、7万円程度、給料が出なかった月の補償としてビックさんは受け取っていました。ただし、労災による療養後、怪我の症状が固定したときに提出する障害補償給付請求書はまだ提出されていませんでした。労災被災者の権利が失われかけていたのです。ビックさんの帰国予定日まで数日しかなく、ビックさんは自分が通っていた教会に身を寄せることを決意し、住んでいた会社の寮をこっそり逃げ出しました。労災の障害補償給付請求を行うことと、ビックさんが日本でクリスマスを過ごすことを希望したからです。もう二度と来ることの無いであろう、異国でクリスマスを過ごしてみたいと若者が考えるは理解できることでした。私たちは、ビックさんを保護したことを会社に伝えました。監理会社の担当者が私の携帯に電話をかけてきて、「ビックがこれ以上日本にいて何の意味があるんですか?」としつこく聞いてきました。安い労働力としては、ビックさんは用済みで、この担当者にとっては厄介者でしかなかったのでしょう。ある日などは、「ビックに寮に帰るように言ってください。社長に侘びを入れて欲しいのです」と電話で伝えてきました。労災保険の障害補償給付請求書は怪我が治った後、通常、ただ提出するだけの申請用紙です。まともに対応していたのならば、5月か6月頃には提出できたはずです。それさえ提出せず、被災者の権利を無視し、強制的に帰国させようとする人間が実習生を管理しているのです。
ビックさんが会社の寮を出た時、ビッグさんの所持金はわずかでした。前月の給料はベトナムに送金したり、自分の生活費にすでに使ったりしていたからです。私たちはプレス会社に事前に連絡をし、最後のビックさんの給料と年金手帳を受け取りにいきました。プレス会社の社長はビックさんとも私たちとも一言も口を利かず、待機していた監理会社のベトナム人女性通訳にビックさんの給料を手渡しながら、「おまえらがしっかりしないからこんなことになったんだ」と愚痴をこぼしていました。8万円程の1カ月分の給料を受け取り、立ち去ろうとするビックさんに監理会社のベトナム人の女性通訳が立ちはだかり、「あなたの給料を全て渡しなさい。私が航空券を用意します」とベトナム語でしつこくわめき続けました。同胞が同胞を食う瞬間を見たようで、寒々とした気持ちになりました。
ビックさんの在留期限が迫っていました。これをクリアしておこうと、名古屋入国管理局で短期在留許可の申請を私たちは行いました。滞在の理由は「労災保険の障害補償給付の申請」でした。この前日まで、監理会社の担当者は「あなたはどう責任を取るんですか?ビックは不法滞在になりますよ。航空券を用意しますからすぐに帰国させなさい。帰国費用は彼女が払ってください」と電話をしてきていました。実習生は在留期限が来ても、60日間は猶予を与えられ摘発の対象にならず、その間に短期在留許可申請を出せば受理してくれることは入管の担当者から教えてもらっていましたが、他の事業所に行けないことがはっきりしてしまったので、在留期限が来る前に手続きを取ったほうが良いと考え、在留期限が来る2日前に短期在留許可の申請を行いました。
ビックさんが通院していた小牧市民病院に行き、障害補償給付請求書の裏面の診断書を医師に記入したもらいその後、労働基準監督署に行きました。私はすでに退職しているので会社証明無しで提出しても良いか担当者に聞きました。担当者の会社証明を取ってくださいという指示に従いプレス会社に障害補償給付請求書を郵送しました。請求書はプレス会社の社長が押印した後、東京の監理会社に送られ、労働基準監督署が年末閉庁する前日の12月28日の午後に届きました。私は請求書とX線写真を抱え労基署に走っていき、28日にビックさんの障害補償給付請求を行いました。その場で残存障害の調査日が1月11日と設定されました。
1月11日にビックさんは労働基準監督署で障害等級を決めるための調査を受けました。現在の状況を書く様式は私が手伝いました。通訳のOさんを通じて口頭でビックさんが現在困っていることを話してくれました。それは、右手の人差し指が曲がらないので、鉛筆が持てず字が書きづらい、包丁が大変持ちにくく、料理がしづらい。ハサミもきちんと握れないので、服の修理の時に困るという内容でした。この調査でビックさんの人差し指に著しい可動域制限があることが確認され、さらにX線写真で骨の一部が失われていることも確認されました。痛みもかなり残っていることをビックさん自身が労基署の担当者に伝えました。
1月18日、ビックさんの障害等級と保険給付の支給が決定されました。ビックさんの障害等級は第14級の6で身体障害は、1手の母指以外の手指の指骨の一部を失ったものでした。保険給付は18日に行われ、平均賃金の56日分と障害特別支給金が支払われました。彼女の短期在留許可が正式に認められたのが1月17日で、1月20日、ビックさんは中部国際空港からベトナムへ帰国しました。航空券代は帰国前に、監理会社の担当者と再び話し合いを行い、プレス会社が負担することになりました。6万円ほどの既に支払った厚生年金保険はベトナムから日本年金機構へ脱退一時金の申請が出来るようベトナム語の申請書とパンフレットを年金機構のホームページからプリントアウトして本人に渡しました。
最後に2010年3月28日に労職研事務所で外国人労働者の声に熱心に耳を傾けた移住者の人権に関する国連特別報告者ホルへ・ブスタマンテさんが2011年5月31日にジュネーブでの国連人権理事会で公表した訪日調査報告書の「IV結論と勧告」のパラグラフ80を紹介します。
研修生・実習生制度は、技能と技術を発展途上国に移転するという、同制度の本来の目的を確実なものにするため停止し、雇用制度に変更すべきである。報告された深刻な人権侵害に照らして、新しい制度を規定する特別な法律を制定すべきである。その法律には、参加者の人権を保護するための、関連企業から完全に独立した機関によって運営され、救済手段へのアクセスを保障する、より効果的で利用可能な監視・申し立て機能を盛り込むべきである。
(2012年1月執筆)